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『失速――ガロが燃えつきた日』を読んで思ったこと

本書の論旨は、レコード会社の利益のためにヒット曲が必要であり、所属アーティストの中でも可能性のありそうなガロに白羽の矢が立ったこと、経営難のために長い目でバンドを育てることができず性急な売り方になったことは事実ながらも、ガロにレコード会社や事務所の意向をはねつけるだけのバンドとしての意思がなかった、なぜなら三人がはじめからばらばらであったから、というもの。

著者の推論や持論が展開される地文はともかく、テープの書き起こしのように綴られている各メンバーの告白部は面白く読んだ。特にトミーが子供のときに実家の食堂の客と『喜びも悲しみも幾歳月』の歌詞が「無事」か「富士」かで喧嘩になったという話が傑作だった。
”絶対にオレが正しいんだと思ったね。ああいう大人には、なりたくないって思ったね”
この部分が本書のハイライトと言っても過言ではない。私はここでページから顔を上げてふははと笑った。他にもトミーは『学生街の喫茶店』の歌詞に出てくるボブ・ディランを、知らなかったし聞いてもあんまり感じない、とあけすけに述べていて面白い。

他に気に入ったのがボーカルによる怒涛の山上路夫ディスリスペクトだ。『ロマンス』の詞に対しての ”大反対したけどね、僕は” に始まり、『ピクニック』は ”詞が最高にいやだった” と言い、山上路夫がA面ほぼ全曲の作詞を手掛けたアルバム『サーカス』について、アルバムのサウンドは称賛しつつも、”詞がちょっと甘いかなっていう部分はあるけどね” とすかさず付け加えている。ちなみにボーカル、このアルバムで自分に割り振られた山上氏の詞に曲をつけずに自作詞に曲をつけて提出している。どんだけ嫌いなんだ山上路夫の詞。

このようにボーカルは詞に対する不満は持っているものの、曲の良し悪しを判断する感性は他の二人のメンバーと少し違っていたようだ。それが証拠に、ファーストアルバムに収録されているようなオリジナル曲と『学生街の喫茶店』を比べても ”大して変わりはしないと思うよ” と述べている。これには私も突っ込んだ。おいおいおい。全然違うよ。また、本書の中で大多数の被取材者から大不興を買っている『姫鏡台』を ”そんなに悪くはない” とも評している。私はファンだからこの曲も聴きますけど、ガロを布教しようと思ったらまず薦めないと思います。

対照的にトミーは、マーク作曲の『ピクニック』がシングルに採用されたことを ”本当に良かったなあって思った。このままでいきたいなあって思った” と語っている。後ろの文脈から、このままオリジナル路線で行けば自分の曲も採用されるかもしれない、という目論見がうかがえるが、他の発言と照らし合わせても、少なくともマークの作った曲を「他人の作った曲」ではなく「自分たちのオリジナル曲」と見なしていることがうかがえる。これは、非常にバンド的な考え方ではないだろうか。富澤氏はガロのバンドとしての機能不全を強調していたが、私はこの箇所を読んでやはりガロはただのソロプレイヤー同士のワンマン合戦ではなく、バンドだと思った。

ここからは私の妄想が入ってくるが、ボーカルの語りの中から気になる発言をピックアップしてみた。
”じゃあ、ぼくに書けというかといったら別にそういうのはなくて、書けともいわないし”
”トミーとマークは、詞に関してはほとんどどっちでも良かったみたいね。あればいいって感じ” 
私はファーストアルバムの中でも『たんぽぽ』『二人の世界』が大好きである。そして、シングル『ビートルズはもう聞かない』のB面に収録されていた『惑』も負けず劣らず大好きな曲である。これらの曲の共通点は、マーク、トミーが曲を作り、ボーカルが詞をつけている点だ。私もボーカルと同様、マークとトミーの良い曲に山上路夫の変な詞がついているのが不服であった(『花の伝説』は例外として。あと、マーク・トミーの曲ではないけれど、『散歩』の詞もまあ良かった)。こんな詞をつけるくらいならボーカルが詞を書けばいいのにと何度思ったか知れない。私は本書を通読してこんなことを思った。マークとトミーが曲を作り、ボーカルが詞をつける、というように分業して曲を作っていたのなら、もっといい曲ができていたうえにバンドとしての結束も否が応にも深まったのではないか……妄想だけどね。